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信州の静かな里山 長野県 鹿教湯温泉 斎藤ホテル

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【新レストラン連載コラム⑭】レストランに横浜港の地図がある深い理由

2025/01/08

 

Restaurant溪を入ってすぐ左側の壁に、明治時代の横浜港の地図が掲げられています。
これは斎藤家の土蔵に眠っていたもので、あえてレストランのエントランスに掲げました。

 

江戸末期、この地方からは「蚕の卵(蚕種)」が世界へと輸出された時期がありました。当時、全世界で蚕の病気が流行し、特にフランスやイタリアなどの養蚕が盛んな地域では、ほぼ蚕が全滅してしまうような状態で、日本の「蚕種」が飛ぶように売れました。同じ重さの金と取引されたというのでまさにバブル状態です。その後、蚕種の輸出で得た資金をもとに紡績業が盛んとなり、明治中期には大量の絹が世界へ輸出されていきました。斎藤家のご先祖も旅館業の傍ら小さいながらも紡績工場を営み、横浜港を経由して世界へ絹を輸出していたようです。

 

出典:藤本蚕業アーカイブ「アサヒグラフ臨時増刊日本の工業 (1929)」より

 

鹿教湯周辺の民家ではどの家でも養蚕が行われていました。そしてその蚕のエサとなる植物が「桑」でした。当時の鹿教湯温泉周辺の山の状況は今とはだいぶ違って、ほとんどの斜面が桑畑でおおわれていたといいます。現在でも山を歩いていると、かなり頂上に近いところまで桑畑の跡だったことを示す石垣が残されています。桑は荒地で水利が悪いところでも栽培できたので、まさに鹿教湯周辺は桑の適地であったのです。

 

養蚕は昭和初期までさかんに行われていましたが、その後は世界各国で安い絹が生産されるようになり、養蚕は次第に廃れていきます。どこにでもあった桑畑は、一部は畑や田んぼに変わったものの、その多くは水利が悪いために利用されず荒地となってしまったのです。

 

桑畑

 

ところがワイン用ブドウの栽培となると、水利がよくないことがかえって有利となり、桑しか栽培できないような土地が栽培には適地となりました。この地域の代表的なワイナリーである「シャトー・メルシャン 椀子ワイナリー」の葡萄畑も、もとは水がなく桑しかとれないような荒れた土地であったのです。桑畑がワイン用ブドウ畑へ変わっていきました。

 

桑畑からブドウ栽培へ。絹からワインへ。同時に、明治時代にこんな山深い片田舎でも、先人たちは世界を相手にした商売をしていたことに驚きを隠せません。Restaurant溪もそういった先達の想いを引き継いで、日本だけでなく、世界中から人が訪れるようなレストランにしたいという想いをこの地図に託しました。

 

そんな想いで掲げてある横浜港の地図で、この地域の歴史に思いを馳せていただくのも、Restaurant溪の楽しみのひとつになるかと思います。